還骨(かんこつ)勤行とは・・・
葬儀が終わって、遺骨が家に還ってくるとお仏壇を荘厳(しょうごん)し、中陰壇(ちゅういんだん)を舗設し、仏壇の前で経を唱えるのが還骨勤行です。
色花はダメですか
還骨が終わり、法話をした後でよく「満中陰がすむまで色花はダメですか」とよく聞かれます。そこで、私はいつも「白色の花も色花ですので・・・」と微笑みながら応えるようにしています。
そして、「できるだけ赤い花は避けるようにしてください」と付け加えるようにしています。
白色の花と黄色の花などの色花を・・・
供える花は、白色の花と黄色の花などの色花を主に供えてください。そして、故人が好きだった花があれば故人を偲ぶ意味でもその花を供えることもいいでしょう。
心を込めて
花屋さんに売っている花に限らず、庭先に咲いている花でも四季おりおりの花を心を込めてお供えするのもいいでしょう。
ただし、浄土真宗では、通常、毒気のある花やトゲのある花、悪臭を放つ花などは避けます。
ローソクと言えば白色と言うのは一般的ですが・・・・
ローソクと言えば白色と言うのは一般的ですが、使い方によってローソクの色が変わってくることを意外と知らない人が多いようです。
50回忌の法要の時などは赤色のローソクを用います
白色のローソクは平常時や一般の法要に用いますが、入佛式や50回忌法要の時などは赤色のローソクを用いるのが通例になっています。また、地域によっては7回忌以降の法事でも赤色のローソクを使用するところもあります。
仏前結婚式では・・・・
仏前結婚式の場合などは、金色のローソクを用います。金色のローソクがないときには、白色のローソクの上から金箔(きんぱく)を塗ったもので代用する事もあります。
葬儀や追悼法要では・・・・
また、葬儀や追悼法要の時などは銀色のローソクを用いるようになっています。これも、ない場合は白色のローソクの上から銀箔(ぎんぱく)を塗ったもので代用する事もあります。
買い求めることが難しいのが現状です
いずれにしても、金色のローソクや銀色のローソクを買い求めることが難しいのが現状です。従って、現実的には金色のローソクや銀色のローソクの変わりに白色のローソクを使うことが一般的になっています。
かたちにとらわれることなく心から手を合わす心が大切では
ローソクの色などのかたちにとらわれることなく、心から手を合わす心が大切ではないでしょうか。
仏壇のおまつりの仕方の基本
浄土真宗では、仏壇のおまつりの仕方の基本は、お香(通常は線香)をくべ、ローソクに火をつけ、お花を立てることです。(作法・・仏壇のまつり方を参照してください)
実際に聞いたことがあるのですか
こういう話を檀家の人にすると、ローソクの火をつけるのはご先祖が暗いと困られるからとか、道に迷われるからなどいわれる方があります。
こういう話をされると私は、「実際に聞いたことがあるのですか」と冗談を言うように話します。
すると、たいていそこで笑いが起こります。実際そんな話、誰も聞いた事がないはずですが・・・・
ローソクをともす意味は・・・
そこで、ローソクをつける意味について話すようにしています。ローソクの光は概ね二つの意味があると言われています。
一つは、私たちの心の中まで照らしてくださる光、すなわち智慧の光なのです。
もう一つは、私たちの心を解きほぐすかのような温もりの光、すなわち、如来様のお慈悲の心をあらわす光なのです。
このような意味合いを理解して、仏壇のローソクに明かりをともすと今まで以上に輝いて見えるかもしれません。
浄土真宗では聞法(もんぽう)を大切にしている
浄土真宗では、聞法を大切にすると言われますが、本堂をみるとそのことがわかります。
内陣(ないじん)と外陣(げじん)
お寺の本堂は、内陣と外陣にあります。内陣は、仏さまを安置するところで、外陣は、お参りする人が座るところです。
内陣に比べ外陣は・・・
浄土真宗のお寺の場合、内陣に比べ比較的外陣が広くなっています。
一人でも多くの方がお参りしていただけるように
これは、一人でも多くの方がお参りしていただけるようにという思いからです。
宗祖、親鸞聖人が明らかにされた念仏の教えを聞く
それは、宗祖、親鸞聖人が明らかにされた念仏の教えを聞く、これを聞法と言いますが、その聞法を聞く場所が時代の移り変わりともにお寺になっていったのです。
だから、浄土真宗のお寺の本堂は、できるだけ多くの方がお参りいただき、聞法を聞いていただけるようにという思いから外陣を広くしてあるのです。
お彼岸は、日本独自の仏教行事
お彼岸は、日本独自の仏教行事です。お彼岸の行事が行われはじめたのは、平安時代だといわれています。しかし、それは一部の人たちの間だけで行われていた行事で、広く民衆の間にまで広まったのは江戸時代になってからのことだと言われています。
お彼岸はいつからいつまで
春のお彼岸は、中日をはさんで前後3日間です。春の場合は、3月17日から3月23日までです。そして、真ん中に当たる3月20日を彼岸の中日(ちゅうにち)といい、お彼岸がはじまる3月17日を彼岸の入り、お彼岸が終わる3月23日を彼岸あけと言います。
お彼岸とは
お彼岸とは、至彼岸を意味し、彼岸に至ることを意味します。すなわち、彼岸は、彼(か)の岸、つまり極楽浄土のことを意味します。人々は、苦に満ちた現世から理想の世界である極楽浄土に渡ることを願い、当時の人々は六種類の実践業を行いました。それが六波羅蜜(ろくはらみつ)と言うものです。
七日間で六種類の修行
六種類の修行を一日に一種類の修行を行い、ちょうど真ん中に当たる日、つまり中日には六種類の修行をまとめて修行を行いました。だから、お彼岸は七日間あり、お彼岸に入る日を彼岸の入りと言い、お彼岸の終わりの日を彼岸が明けるといいます。
お彼岸と言えば「お墓参りの日」と思っている人が
現代では、お彼岸と言えば「お墓参りの日」と思っている人がけっこう多いように思われます。しかし、お彼岸の由来を考えてみると、お彼岸とお墓参りは直接関係ないように思われます。
ご先祖がおられたからこそ今の自分が
しかし、お墓参りそのものは大切なことです。ご先祖がおられたからこそ今の自分があるのです。亡くなられた方への想いというものはたちがたく、忘れられないものです。
阿弥陀如来さまの功徳によって
浄土真宗では、亡くなられた方は阿弥陀如来さまの功徳によって極楽浄土に還(かえ)り、仏になっておられるというみ教えです。
お彼岸には、お墓参りも大切でしょうが、お寺さんに行って、お念仏を称え、仏法を聞き、故人を偲ぶことも大切ではないでしょうか。
初七日も一緒にお願いします
最近、葬儀に行くと「初七日も一緒にお願いします」と言われることが多い。どうも、初七日は葬儀の後の還骨法要(かんこつほうよう)のあとに行うものと思っている人がけっこう多いようです。
初七日法要
初七日のことを正式に言うと「初七日法要」といいます。この法要は、故人が亡くなって7日目に行う法要のことです。(例えば、水曜日故人が亡くなったとする。一般的によく木曜日が通夜、そして金曜日が葬儀、水曜日から数えて七日目に当たる火曜日が初七日法要となる)
3日おいて・・・
ところが、故人が亡くなって次の日が通夜、そしてその次の日が葬儀となり、3日おいて「初七日の法要」をとり行われるので故人にゆかりのある人が集まり、故人を偲ぶことが難しいようである。
故人のゆかりのある人が一同に集まりにくい・・・・
初七日法要の日が日曜日とか祭日であれば比較的故人を偲ぼうとお参りしやすいが、初七日の日が平日であれば、故人のゆかりのある人が一同に集まっておまいりするのがかなり難しい。
このような事情から、初七日の法要が葬儀の後にしてほしいと言う方が多い。
ところが・・・
ところが、そういう事がわからず初七日の法要は葬儀の後に行うものと思っている人が多い。
法話で・・・
私が、通夜の時に行う法話で「人の死を無駄にしない事が大切だ」と言う趣旨のことを話すことが多い。これは、故人の死を通して手を合わすことも人の死を無駄にしない事につながるのではないかと考えるからである。
魂抜き
仏壇を買うので、古い仏壇の「魂を抜いてください」と言われることがたまにある。実のところこういうふうに言われると戸惑うのでが・・・・
仏壇の魂を出したり入れたり出来るのだろうか
私は、僧侶であると同時に一人の人間である。ひとりの人間が仏壇に魂を出したり入れたりそんな事が出来るのだろうかと、そういう時いつも思う。
遷座法要(せんざほうよう)または遷仏法要(せんぶつほうよう)
浄土真宗では、仏壇を別の場所にお移しする場合は「遷座法要」と言ったり「遷仏法要」と言います。また、仏さまがお移りいただくのですから「移徒(わたまし)とも言われる場合もあります。
入仏法要
逆に、仏壇を新しく買ったりしたときに行う法要は「入仏(にゅうぶつ)法要」、または、「入仏式」と言い、仏様をお迎えしたことを慶び、お徳たたえるための法要を行います。
この時期になるとお正月の供え物は「何を供えたらよいですか」とよく聞かれます。
まず、内掛けを敷いていない仏壇には、内掛けを敷くように言います。そして、阿弥陀様の前に仏飯を備え、お餅や干し柿を供え、お餅の上に葉月みかんを置いて供えることが昔からの習慣です。そのほかに、菓子(できれば穀類でできたもの)、季節の果物など少しずつ供えてくださいと言います。
お供え物の量を考えて
ただし、仏壇に供える量についても必ず注意してほしいという事も付け加えます。そうでないと、供える量が多くて仏壇の中が食べ物であふれている場合がたまにあるからです。
供え物をする場合、それぞれ一つか二つずつにして供えるように心得るようにしないと仏壇がお菓子箱のようになってしまうことがあります。
水は華瓶(けびょう)に入れて
そして、水は華瓶(けびょう)入れ、しきびの葉を一枚入れるようにします。これは、しきびの葉をいれるのには二つの理由があります。一つは、華瓶に入れた水にふたをするという事、もう一つは、しきびの葉は香りが強いため、仏壇に供える香りのする水を供えるという意味合いがあります。
これは、線香をたくのと同じような意味があります。阿弥陀経(あみだきょう)という経には、お浄土はなんとも言いがたい芳(こうば)しい香りが漂っていると説かれてあるからです。
花やローソクの置く位置が決まっています
また、花は赤・白・黄・紫などの色花、仏壇に向かって左側に置き、ローソクは仏壇に向かって右側、そして、真ん中に土香炉(どごうろ・・・ここで線香をたく)を置きます。
以上のようなことを踏まえ、仏壇に供え物をし、新しい歳を迎えてみればいいのではないでしょうか。
詳しくは。作法の中の仏壇のまつりかたをご参照してください。
四苦八苦は全部で八つ
昔からよく言われている言葉に「四苦八苦」という言葉がありますが、これは、最初の四つの苦しみと後の四つを加えて全部で八つの苦しみがあるという事です。
生老病死
この言葉で、最初の四つの苦しみについて取り上げたいのです。四つの苦しみとは、人は、この世に生まれ、年をとり、病気になって、死んでゆく。この過程を多くの人がたどることになる。この事を「生老病死」と言われています。
運命的なもの
ここで考えてみたいのは、「生」という事です。私たちはこの世に生まれてくるのに自分の意思や希望などかなえられない。それでも生きてゆかなければならないだろう。
生きてゆく中で、多くの人々と人間関係を持ち共にささえあいながら生きてゆくことになる。そこに「運命的」なものを私は感じる。
自分の番が
僧侶として葬儀に行った時など特に感じる。人には「天寿」のようなものがあり、それをまっとうされたのではないかと考える。そして、自分の番がいつかは回ってくると思わずにはいられない。
精一杯生きること
人は、必ず「死」を迎えなければならない時が来る。それはいつ来るかは誰にもわからない。
だから、今、生きている事を有難く思い、精一杯生きていくことが大切だと思う。
お盆の由来
お盆はもともと「孟蘭盆経(うらぼんきょう)」というお経に由来していると言われています。
目連とお母さん
その経には、お釈迦様のお弟子さんに目連(もくれん)という方がおられたそうですが、その方とその方のお母さんのことについて説かれています。
目連は神通力にたけた人といわれているが・・・・
目連という人は神通力にたけていて人間の世界にいながら他の世界のことがわかる宿命通にたけていたとされています。
お母さんは何処の世界にいるの・・・
その目連が亡くなったお母さんが何処の世界にいるのかと思い神通力を使い何処の世界にいるか探してみました。するとこともあろうにお母さんは、生まれ変わった世界で食べ物もなく、身体をさかさにつるされているような苦しみを受けていることがわかりました。
お釈迦様に相談してみると
そこで目連がお釈迦様に相談したところ、お釈迦様は、聴聞に精進し、修行された僧たちに着るものから食べ物から、すべてを施しなさいと言われたとされています。
その教えに従った結果・・・
その教えに従い、教えられたとおりにし、再び神通力を使ってお母さんを探したところ極楽浄土の蓮の池の蓮の花の上に座って仏の教えを聞いていることがわかりました。
自分の施しがお母さんを救った
自分の施しによって亡くなった方を救うことができたと言う宗教的な喜びを身体全体で表したものが盆踊りです。
この説話が事の始まりとなり、お盆の行事が始まったとされています。
お盆の行事を通して
このお盆の行事を通して、故人を偲び、「人に生まれた意義と生きる喜び」を考える機会ではないでしょうか。
家族がいないので同じ仏壇におまつりしてもいいですか
先日、いつもお参りしている家の奥さんから「一人暮らしの兄が急に他界したのですが、家族がいないので私に家の仏壇でおまつりしたいと思うのですがいいでしょうか」という相談を受けました。
さしつかえありませんが・・・
私は、「別段差し支えないと思いますが」と応えました。すると奥さんは「大丈夫でしょうか」言われましたので、思わず「何が・・・」と言ってしまいました。
故人を偲ぶことに問題はないでしょう
そこで、私は「奥さんとお兄さんはご兄妹でしょう。縁のある方を同じ仏壇でおまつりし、故人を偲ぶことに何の問題はないでしょう」と応えました。
縁やゆかりのある方との命のつながりを大切に
そして、「奥さんの家のご先祖を通して、縁やゆかりのある方との命のつながりを思うことが大切でしょう」と付け加えました。
浄土真宗では位牌は使いません。過去帳を用います
浄土真宗の場合、位牌は使いません。亡くなられた方は「過去帳」に法名(浄土真宗では戒名とはいいません)・俗名(生前の名前)等を書きます。
ですから、私は相談された奥さんの家の過去帳にお兄さんの法名等を書いてあげました。そして、お渡しする時に、後々の事もありますからお兄さんと奥さんの続き柄を記入しておいてくださいと言いました。
具会一処(くえいっしょ)とは・・・
浄土真宗では、亡くなればお浄土に還(かえ)ると言います。お浄土に帰り、素晴らしき人々と一処(ひとところ)に会うことが出来るという教えがあります。すなわち、尊敬する人・親しい人・愛する人などと再び出会い、共に過ごす世界という事になります。このような事を具会一処(くえいっしょ)と言います。
「起きて半畳、寝て一畳」という言葉を思い浮ぶことが多い
最近、お金にまつわる事件などがテレビや新聞などで報道されることが多いが、そういう事件が報道されるたびに昔から仏教で言われる言葉で「起きて半畳、寝て一畳」という言葉を思い浮かべることがある。
この言葉から連想することは・・・
この言葉から連想することは、人間が寝る時には畳一畳の広さがあれば寝られる。また、まっすぐ立っている時はいくらがんばっても半畳もあれば十分立てっていることができるという事を思い浮かぶ。すなわち私はこの言葉を欲望を持った眼で物事を見てはいけないと言う事を言っているものだと考えている。
一生、生きていくとなれば・・・
生きていくためだけなら、今日食べるものがあれば何とかなるでしょう。でも、一生、生きていくとなればそうは行かないでしょう。
いろんな人との関わり、心の支え、などいろんなものとの関わりあって生きていけるのではないかと思うのです。
何かに頼りたくなるときが・・・
また、いろんな人やいろんな事とのからみの中でわずらわしさも出てくる。そこで何かにたよりたくなるときがある。
「南無阿弥陀仏」の念仏となって
浄土真宗では、私たちに救いの手を「南無阿弥陀仏」の念仏となって私たちに届けられているという教えです。
この念仏と共に生きていくことが大切だと考えています。
お彼岸は、日本独自の仏教行事
お彼岸は、日本独自の仏教行事です。お彼岸の行事が行われはじめたのは、平安時代だといわれています。しかし、それは一部の人たちの間だけで行われていた行事で、広く民衆の間にまで広まったのは江戸時代になってからのことだと言われています。
国民の祝日として
明治時代になって国家の祭日となり、春の祭日を春季皇霊祭、秋の祭日を秋季皇霊祭と定められました。それが、昭和23年に、国民の祝日として春分の日、秋分の日と定められ現在に至っています。
お彼岸とは
お彼岸とは、至彼岸を意味し、彼岸に至ることを意味します。すなわち、彼岸は、彼(か)の岸、つまり極楽浄土のことを意味します。人々は、苦に満ちた現世から理想の世界である極楽浄土に渡ることを願い、当時の人々は六種類の実践業を行いました。それが六波羅蜜(ろくはらみつ)と言うものです。
七日間で六種類の修行
六種類の修行を一日に一種類の修行を行い、ちょうど真ん中に当たる日、つまり中日には六種類の修行をまとめて修行を行いました。だから、お彼岸は七日間あり、お彼岸に入る日を彼岸の入りと言い、お彼岸の終わりの日を彼岸が明けるといいます。
お彼岸と言えば「お墓参りの日」と思っている人が
現代では、お彼岸と言えば「お墓参りの日」と思っている人がけっこう多いように思われます。しかし、お彼岸の由来を考えてみると、お彼岸とお墓参りは直接関係ないように思われます。
ご先祖がおられたからこそ今の自分が
しかし、お墓参りそのものは大切なことです。ご先祖がおられたからこそ今の自分があるのです。亡くなられた方への想いというものはたちがたく、忘れられないものです。
阿弥陀如来さまの功徳によって
浄土真宗では、亡くなられた方は阿弥陀如来さまの功徳によって極楽浄土に還(かえ)り、仏になっておられるというみ教えです。
お彼岸には、お墓参りも大切でしょうが、お寺さんに行って、お念仏を称え、仏法を聞き、故人を偲ぶことも大切ではないでしょうか。
春分の日、秋分の日をはさんで前後3日間です
お彼岸は年に二回、春と秋にあります。よく「お彼岸はいつからですか」と尋ねられることがありますが、お彼岸は、春分の日、秋分の日をはさんで前後3日間ですからちょうど7日間あります。
3月18日から3月24日になります
つまり、春のお彼岸は、春分の日が3月21日ですから、3月18日から3月24日になります。お彼岸の始まりの3月18日を「彼岸の入り」といい、彼岸の終わりの3月24日を「彼岸の明け」と言います。そして、ちょうど真ん中に当たる3月21日の「春分の日」が彼岸の中日になります。
お日さま、お天道さま
この日は、真東からのぼった太陽が真西に沈むことから、人々は西方の彼方にあるとされる極楽浄土を偲ぶようになったと言われています。 このような考え方から人々は古来より「お日さま」とよんだり、「お天道さま」とよんだりしてきました。
阿弥陀如来さまの仏国土
西方浄土とは、西の彼方にある十万億の仏土を隔てたところに存在する、阿弥陀如来さまの仏国土のことを意味します。
彼岸とはむこうの岸
仏国土は阿弥陀さまの浄土のことを意味します。彼岸とは「向こうの岸」という意味ですから、お浄土のことをさします。
西の彼方に沈む夕日をみて
阿弥陀如来さまは限りない「光の仏さま」と言われていますから、昔から人々はお彼岸の中日に西の彼方に沈む夕日をみて、その先に極楽浄土があると考えてきたものだと思われます。
お墓が出来たのですが・・・
「お墓を建てたので、お経を称えてほしいのですが・・・」と時々言われます。これは以前にもこのブログで書いたように「建碑法要(けんぴほうよう)又は建碑慶讃(けんぴけいさん)法要」といい、お墓ができたときに行う仏事です。
ローソクは赤色を
建碑法要を行うときの供え物は何がいいのですかと、必ずと言っていいほど聞かれます。
その場合、まずローソクは赤色一対、花は一対、線香を供えますと応えます。
そして、食べ物は紅白の小餅、赤と白を一対にして二組程度、赤飯、季節の果物、菓子、昆布などを供えてくださいと応えます。これは、平地でのもの、山の幸、海の幸を供えると言う考え方からそう応えます。但し、地方の習慣によって多少変わることがありますからお寺さんに事前に聞いておくのが良いと思います。
浄土真宗では、お酒を供えたり、お酒で墓を清めたりはしません
すると、中にはお酒はどのようにすればいいのですかと聞かれる方がおられますが、浄土真宗ではお酒を供えたり、お酒でお墓を清めたりするようなことはしません。
念珠を忘れないようにしましょう
そして、絶対忘れてはならないものは念珠でしょう。一人ひとりがお墓をお参りするのに欠かせないものだからです。
お墓の正面には南無阿弥陀仏の名号を
浄土真宗では、お墓の正面には「南無阿弥陀仏」のお名号を刻みます。これはご先祖を偲ぶ上でも、自分の人生の心のよりどころでなるのは阿弥陀如来様であるかです。
法名碑(ほうみょうひ)といいます
また、法名を墓石に刻みきれない場合、霊標としないで法名碑(ほうみょうひ)とします。法名を記す石板を浄土真宗では霊標とはいわず、法名碑といいます。
浄土真宗では念珠という言い方をしています。
お寺のお参りや法事、葬儀などで欠かせないものに念珠があります。これは、数珠(じゅず)あるいは、珠数(じゅず)とも言いますが、浄土真宗では念珠という言い方をしています。
念珠の珠(たま)の数はいくつあるのが正しいのですか
正敬寺の例会の時、お参りにこられた人から「念珠の珠(たま)の数はいくつあるのが正しいのですか」と聞かれました。
念珠には、二輪念珠(ふたわねんじゅ)と単輪念珠(ひとわねんじゅ)があります
本来、念珠の珠(たま)の数は人間の煩悩の数だけあるものです。ですから、本来108あるはずなのですと応えました。浄土真宗では念珠には、二輪念珠(ふたわねんじゅ)と単輪念珠(ひとわねんじゅ)があります。一般的に持つのは単輪念珠ですから108も珠の数はありませんと応えました。
108を基準にしています
念珠の珠(たま)の数と言うのは、108を基準にして、108の半数の54、54の半数の27の数でしょう。また、場合によっては108の10分の1の18である場合もありますと説明しました。
するとお参りにこられた方がめいめいに自分の念珠の珠の数を数られて、自分の念珠の珠の数はちょうど27あるとか、29あるとか25しかないと言われました。
一般的に単輪念珠では、珠の数に規定はなく、手の大きさに合わせて作られているので、念珠の珠の大きさによってその数が多少異なってきて当然でしょう。
如来さまにお参りする時の礼儀作法として念珠を用いています
浄土真宗では、如来さまにお参りする時の礼儀作法として念珠を用いているので、念珠の珠の数にこだわる必要はないでしょう。
予期しない事を聞かれることがあります
檀家参りをしていると、私が予期していない質問を受けることがあります。
先日も経を称え終わってお茶を頂いている時、「どうしてお坊さんは経を称える時、本を見られるのですか」と聞かれました。
浄土真宗では経本を見て経を称えるのです
「浄土真宗では、経本を見て経を称えるのが作法なのです」と応えると、「経本を見ないで経を称えている僧侶を見かけたことがある」と言われました。
経本を見ないで経を称える経もあります
浄土真宗でも経本を見ないで経を称える経はありますが、それは一部の経で多くの経は経本を見て経を称えるのが基本なのです。ですから、門信徒の方の中には浄土真宗の僧侶は、あれだけ毎日経を称えているのにどうして経本を見て経を称えているのか理解できないと言われる方があります。
正しく声に出して読み上げることが基本です。
「経」とは、お釈迦さまが、説法された事を文章化されたものです。これを称えるという事は、お釈迦さまの説法を声に出して読み上げさせていただいていることになります。そしてその文を正しく声に出して読み上げることが大切です。
仏の徳をたたえることが大切です
その文章を正しく読むためには、経本をみて経を称えることがより正確だからです。そして、経を読み上げあじわい、仏の徳をたたえることと、浄土真宗では教えられています。
法事を勤めたいので・・・
檀家参りをしていると時々「今度、法事を勤めたいので三部経をお願いします」と言われることがあります。そう言われる人の中には、三部経は時間が長いけど、最高のお経だからと思っておられる方もけっこう多くおられます。
三つのお経を合わせて三部経と言っています
そう思っておられる方に、三部経というお経はありませんとはっきり言う。
三部経とは、仏説無量寿経(ぶつせつむりょうじゅきょう=略して大経(だいきょう)、仏説観無量寿経(ぶつせつかんむりょうじゅきょう=略して観経(かんぎょう)、仏説阿弥陀経(ぶつせつあみだきょう=略して小経(しょうきょう)の三つのお経を合わせて三部経と言っています。
仏説と書いてあるのはお釈迦様が説かれたことを示しています。
お経のはじめに仏説とついているのは、お釈迦様が説かれたことだからです。
無量寿経には・・・
「仏説無量寿経」は、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という仏様が、人々を救うために48の誓願(せいがん)をたてられ、気の遠くなるほど長い時間をかけて修行をされ、それを成し遂げられ、阿弥陀如来になられたと説かれています。
観無量寿経には・・・
韋提希夫人(いだいけふじん)という人が自分のこどもに裏切られ、その事で悩み、苦しみますが、お釈迦様の教えによってお浄土に救われていくことが説かれています。
阿弥陀経には・・・
西の彼方にある極楽浄土(西方浄土と言われている)で阿弥陀如来様が教えを説いておられることと、極楽浄土がどんなに素晴らしいところであるのかということが説かれています。
法名をいただきたいのですが・・・
檀家参りをしていると、20代後半のAさんから「法名をいただきたいのですがどのようにすればいいのですか」という相談を受けました。
浄土真宗では「戒名」と言いません
Aさんは浄土真宗では「戒名」と言わず「法名」という事を知っていたようです。それは昔からの古い檀家さんで家の人から教えられていたのだろうと思いました。
ご門主から頂くものです
法名を頂くためにはご本山(西本願寺)に行って帰敬式(ききょうしき)を受け、ご門主から頂くものですと説明しました。
法名は生きているあいだに頂くものです
帰敬式とは、ご門徒の方が浄土真宗に帰依したことを示す儀式で「おかみそり」とも言われています。ですから、「法名」は、亡くなってから頂くものではなく、生きているあいだに頂くものなのです。
仏弟子として、その名前に恥じない人生を送るために
法名は仏弟子として、その名前に恥じない人生を送るために頂く名前ですから人生の何かの節目の時に頂くのもいいでしょう。
心の中にいるその人と一緒に生きていこうと思ったから
ところで、Aさんに「法名」頂こうと思った理由を聞いてみると、10年来交際していた方が事故で亡くなり、その人の事を自分が生きている限り心の中で一緒に生きていきたいという思いから「法名」を頂こうと思ったそうです。
左肩に違和感があったが・・
「あたりまえ事ほど有難いことはない」と思い知らされた事があった。去年の春ごろ、左肩があがらず大変困った。急になったのではなく冬頃から左肩に違和感があったが「たいした事がない」と勝手に思いこみ医者にも行かずそのままにしておいた。
左前から扇風機をあてていただいた
8月に法事があったときのことである。仏間にはクーラーがなかったので、扇風機は何台か用意されていた。私には、ローソクの火が消えないようにと左前からあててくださった。
おかげで汗もかかず
おかげでさほど汗もかかず、経を称えることができました。法事が終わり、お寺まで帰ろうとして左手で荷物を持とうとした時、うまく荷物が持てず驚いた。
左腕に激痛が走る・・・
お寺までの帰り道、左腕を前後に振ろうとしたが、左腕に激痛が走り触れない。何がどうなっているのか自分ではわからない。
五十肩でしょう
その日の夜、あわてて病院にいくと、「たぶん五十肩でしょう」との事、明日検査するので必ず来るようにいわれた。
日にち薬ですから
次の日、再び前日行った病院に行き、検査を受けるとやはり「五十肩」だった。お医者さんが言われるのに「これは日にち薬なのであまり心配することはない。痛み止めの薬を出しておきますから」との事であった。まずは、一安心したが・・・
ちょっとした事でも
それからというものは腕の痛みとの戦いの毎日であった。例えば、自転車に乗っていて、人が急に飛び出してくれば急ブレーキをかけハンドルをどちらかに振る。そのようなことでも激痛が走り痛みに耐えられず自転車から降りて少し休むというような状態であった。
檀家の人に教えていただきました
檀家の人で同じような経験をした人にその事を話すと、その人が直した方法を教えていただいた。一つは、その方が通った整形医を紹介していただき通った。また、日常生活の中で、左腕を前後にゆっくり振るように言われそれも試みた。
6ヶ月ぐらいで
そういう事を続けている事で3ヶ月目ぐらいから徐々に痛みが消え、6ヶ月くらいで殆どよくなった。
ちょっとした事で
その事を通して思ったことだが、痛みを感じるという事は生きている証拠だからこれは仕方ないことだろうと・・・・。そして、日頃、あたりまえのように何気ない動作でも、ちょっとした事で、苦痛や不便さを感じることがある事を改めて思い知らされた。
くいのない人生に
年をとると共に病や死の苦しみから逃れることは出来ない。当たり前の事かもしれないが、命ある限り精一杯生きてくいのない人生にしたいものだと思った。
«前へ | トップへ |
次へ»