妻を亡くして
Yさんは、大阪府のA市の小学校の校長先生をされておられたそうです。Yさんは、数年前、学校を退職され、二人の子供もそれぞれ独立され、奥さんと二人夫婦水入らずの生活を送っておられました。
ところが、2年前、その奥さんもなくなり、現在は独りをよぎなくされています。そのお宅に毎月1回月忌(がっき)(月忌参りとは、毎月亡くなった方の亡くなった日にお経を上げに行くことをいう)参りに行くのですが、ある日、世間話の中で亡くなった奥さんのこと話し始めました。
「今にして思えば、うちの嫁は私にはできすぎた嫁だったと思います」
そういわれてどう返事したらよいのかわからず黙ってうなずくと、
「住職は奥さんとけんかすることがありますか」と尋ねられました。
「そりゃたまにはそういう時もありますけど・・・」
ご主人は、胸のポケットからたばこと出し、口にくわえライタ−で火をつけ、ゆっくりとそのタバコを味わうかのようすい、そして大きく煙を吐き出すと、静かな口調で
「よろしいなぁ。けんかする相手がいて。わしら、もうその相手もいませんわ」
私は、出されたお茶を一口飲んで
「でも、殆どけんかはしないですよ」とさりげなく言うと
「そりゃそうでしょう。でもね、気を使わずけんかする相手がいるのがいいですよ」
「ご主人は、生前、奥さんとよく夫婦喧嘩されたのですか」と聞くと、少し笑みを浮かべて
「よくしたよ。とにかく口うるさいと思ったねぇ。・・・そのとき、はよ、死んだらいいのに思った事もあるよ。・・でもねぇ、こうして、女房に先にしなれて一人になると、文句を言ってくれる者がおらん。また、文句を言う相手がおらん。つまらんよ。さみしいよ。気軽に口喧嘩できる相手がいるのが幸せなことだとこの年になってはじめてわかりました」と淡々とした口調で話されました。
「そりゃそうでしょう。Yさんの事が心配だから生前いろいろと言われたのでしょう。今になってみれば、そういう夫婦のやり取りが懐かしく思え、そして、夫婦のよさがおわかりになったのでしょう。奥さんが亡くなって奥さんのよさがわかる。それでこそ人間だと思います。人間、健康でどこも悪いところがないときにはそれが当たり前と思って普通に生活をしています。けれども、虫歯になって歯が痛くてものが食べにくくなったりすると、歯の有難さがわかる。人というのはそんなものではないでしょうか」とちょっぴりえらそうな事をいうと、
「そんな事はわかっていますよ。でもねぇ、やっぱりさみしいですよ」と、小さな声でつぶやくようにおしゃいました。そして、今度はしっかりと
「住職だったら、私のようになったらどう思いますか」と尋ねられ、タバコをすわれました。
「たぶん、Yさんと同じように思うでしょうね」
すると、Yさんが少し驚いたような顔をして
「あなたでもそう思いますか」と尋ねられました。
「そりゃそうでしょう。はっきり言えば、Yさんより強く思うかもしれません。それはねぇ、お寺というのは、住職のすることを補佐してくれる人がいて初めて成り立つものだと思っています。ですから、私一人でお寺をきりもりするのは大変なのです。ですから、人一倍そう思うと思います。だけど、Yさんとはまた別の思いもあると思うのです」
「それは、わかるような気がします。・・・今言われた別の思いとはどういうことですか」
「それは、個人的な思いとして、人間には寿命というものがあるようの思っているのです」
「寿命とおっしゃいましたが、何か根拠でもあるのですか」
「何の根拠もありません。しかし、人間は、この世に生まれた限り例外なく死にます」
「そりゃ、そうです」
「ですから、そういう割り切り方をしなければ、私の場合たえきれない時があるのです。檀家参りをしていてこのような話をしていて、からだに気をつけてくださいと言って別れたとする。そして、次の日、きのう、話をしていたその人がなくなったからお葬式をお願いしたいといわれたことがあります。その様な場合、『寿命』だという割り切り方をしないと私の場合、耐えきれないのです。・・・・人間、死にたいと思っても寿命があれば死ねません。また、いくら生きたいと思っても寿命がなければ死ななければならない。このような事は、ほかの事と違いいくら努力してもどうにもならない事だと思っているのです。むろん、自分のからだは自分で管理し、健康に気をつけなければなりません。でも、そのように気をつけていても『死』というものは避けられない事実です。だから、今生きている自分を大切にしてがんばる事が、亡くなられた奥さんが喜ばれる事だとおもうのです」
「少し、元気が出てきたような気がしますが、それでもさびしいときどうすればいいのですか」
「私の場合、『南無阿弥陀仏』と唱えるようにしています。それは、法然上人が『念仏のあるところ仏あり』とおっしゃったそうです。その言葉をこころのよりどころとして、念仏を唱えることによっていつでもどこでも如来様がそばにきてくださると信じていきています。だから、つらいでしょうが、Yさんもがんばっていきてほしいのです」
「少しがんばれそうなきがしてきました。時間をとらせてありがとうございました」
そういう話を終えて帰ろうとすると、わざわざ、Yさんが玄関まで送って来てくださいました。
